『埼玉と弘中又一:坊ちゃん先生は熊谷に生きていた!』校友:宇治郷 毅氏寄稿
「埼玉と弘中又一 ― 漱石「坊っちゃん」のモデルは熊谷に生きていた ―」 宇治郷 毅
1,埼玉県立熊谷高校と同志社の縁
埼玉県の北部 に位置し、利根川と荒川という一級河川に囲まれた熊谷市は今では日本で最も暑い町、またラグビーの盛んな町(ラグビータウン) として有名である。戦前は桜の名所として、または歴史好きには源平合戦で活躍した 武将「熊谷次郎直実」の出身地、江戸時代は中山道熊谷宿のあったところとして知られていた。
ところでこの町に、県内有数の進学校である「埼玉県立熊谷高校」がある。前身は、1895(明治28)年の創立(埼玉県第二尋常中学校、その後戦前は県立熊谷中学と改称)で、現在127年になる伝統校である。この高校、同志社とすこし縁がある。それは現在テレビで活躍中のタレント「カズレーザー」(本名は金子和令、同志社大学商学部卒)の母校であるだけでなく、戦前同志社出身の有名な先生がいたのである。その人の名は弘中又一(ひろなか・またいち)という数学教師で、漱石の有名な小説『坊っちゃん』のモデルと言われていた人である。弘中又一(1873~1938)は、山口県の出身であるが、同志社の自由な学風と新島襄先生にあこがれて1890(明治23年)に入学、1894(明治27)に卒業した。在学時に旧制中学校の数学と英語の教員免許の検定試験に合格した秀才であった。卒業とともに、愛媛県の「旧制松山中学校」(現県立松山東高校)に赴任するが、この学校で夏目漱石に出合い、1年間親交を結んだ。その縁で漱石の小説『坊っちゃん』の主人公のモデルにされてしまったわけである。
弘中は、その後徳島、埼玉、京都の中学で数学教師を勤め、生涯を教育に捧げた。弘中が埼玉の「県立熊谷中学」に転任してきたのは1900(明治33)年であった。弘中はこの学校に19年勤めたが、教育に熱心で、学生を尊重し、また同僚にも信頼された名物教師であった。
2,校庭に弘中記念の碑が建つ
ところで、この学校の校庭の一角に、2018(平成30)年8月に「坊っちゃんと田舎教師 ここに教え、ここに学ぶ」という記念碑が熊谷高校同窓会有志によって建てられた。これは漱石の『坊っちゃん』の主人公のモデルとされる弘中教師が田山花袋の名作『田舎教師』のモデルとなった生徒小林秀三をこの学校で教え、ともに過ごしたことを記念するためであった。弘中教師が生徒の小林を教えたのは1900(明治33)年度の一年間であったが、これは弘中が就任した最初の年であり、小林が卒業する年に当たり、この二人が明治の二人の文豪の小説のモデルとなり、この学校で短いとはいえ過ごしたのは運命的出会いであったと言えよう。「坊っちゃん」と「田舎教師」記念碑建立趣意書」には、「二人の文豪の傑作のモデルが熊中で教え、学んでいたことをいつまでも記憶に留めておくために記念碑を建立して後輩たちに伝えたいと思う」とある。記念碑は、二人の人物に寄せる同窓生の母校愛の結晶であるとも言えよう。
熊谷高校の現在の校訓・校風は「質実剛健」「文武両道」「自由と自治」の三つである。これらの校風は弘中教師のいた当時から徐々に形成されて今日に至っているのであろうが、同志社の自治自立、自由の校風で育った弘中には校風も似ているこの学校は非常に居心地がよかったようで、19年間(1900~1919)この学校の名物教師としてのびのびと過ごした。後年、弘中はこの熊谷時代を次のように回顧している。「僕は27才の春から45才まで人生主要の大部分を桜と熊谷に奉仕した。校長室の写真に残っている通り髭のないヤンチャの坊っちゃんから次第々々に髭が生えて分別盛りの一人前にまで出世した・・・」(『熊谷高校80周年誌』昭和50年刊より)
弘中は、`ヤンチャの坊っちゃん`として些末な世間体にこだわらない脱俗で自由闊達な生活を送った。この生き方は松山中学時代からのものだが(それゆえ『坊っちゃん』のモデルになったのかもしれない)、熊谷中学でも多くの破天荒な行動で愛嬌あるエピソードを残している。一方弘中は、冷静、堅実で思慮深い面もあり、博学で教育熱心だったので生徒から慕われた。弘中にとって、この熊谷時代は三男三女に恵まれ、経済的にも安定し、人生でもっとも幸せな時代であったと言えよう。
3,弘中紹介のリーフレットの刊行
私にとり弘中又一の記念碑が建てられたこと自体大きな驚きであったが、さらに2021(令和3年)8月に、熊谷高校同窓会有志と熊谷市文化遺産研究会によってその生涯と熊谷での足跡をたどるリーフレットが刊行されたことにより大きな感動を覚えた。それは、同志社の卒業生で地方で活躍した人物は多いが、ここまで地域の名士として顕彰されている例は少ないと思うからである。これらの出来事は、関東の片隅であった小さな出来事であるが、同志社人としては誇りをもって記憶に留めておきたい。
リーフレットは一枚物で、その表面は「坊っちゃん先生弘中又一が生きた熊谷」のテーマで、弘中の年譜、熊谷中学でのエピソードや写真が載っている。裏面は「坊っちゃん先生 ゆかりの地MAP」で、弘中の生活圏と思われる範囲の名所16カ所が紹介されている。それは熊谷高校から振りだして、「旧中山道」沿いの名所、たとえば江戸時代の陣屋跡、明石家長屋門、本陣跡、弘中家族が住んだ旧居跡(「漱石の「坊っちゃん」先生「旧居」跡」という説明板が立っている)など見ごたえがある。また有名な寺院、神社、教会、名園などは観光案内も兼ねたもので、最後は熊谷駅の前の「熊谷次郎直実像」で終わる。その中にはかつて弘中が散歩を楽しみ、子煩悩の父親として子どもたちと一緒に遊んだところもあるであろう。私もこのコースを「坊っちゃん先生」を偲びながら歩いてみた。この地の長い歴史を伝える由緒深いスポットが多く楽しいものだった。
4,熊谷から京都へ
弘中は1919(大正8)年 、熊谷中学をあとに京都の同志社中学に移った。弘中にとって、同志社は母校であるとはいえ、住み慣れた熊谷を離れること、また安定した官立中学教員(当時は地方の名士)の身分を捨てるのは、つらいことであった。しかし勇気をふるって京都行きを決断した。
そこには、弘中の真摯な生き方を示すエピソードがあった。時の同志社中学の鈴木𠮷満校長は、すぐれた数学教師で人格も立派な弘中を同志社へ招請するために、熊谷を訪れ熱心に説得した。そしてその実現のために夜を徹して祈ったという。弘中はその祈りを、新島先生が自分を同志社に呼んでいると感じ、同志社への転任を決断した。そして後ろ髪を引かれる思いで熊谷をあとにした。
弘中は、それから1932(昭和7)まで13年間、同志社精神を体得した同僚教師に囲まれ教育に専念した。しかしその幸せの時期も昭和期に入ると暗転していった。しだいに強まる軍国主義と天皇制絶対主義(国粋主義)は、同志社のキリスト教主義に基づく自由教育、人格教育を許さなかったのである。同志社を攻撃する多くの事件が起り、教育内容も軍部と時の政府におもねるものに変わり、しだいに生徒が減り、学校経営が苦しくなっていった。そして、1932(昭和7)年それまで同志社精神を守り、生徒から信頼の厚かった弘中をはじめとする教員13人がとつぜん解職された。弘中は無念の内に、新島先生と生徒たちにわびながら同志社を去った。そして1938(昭和13)年8月、愛妻にも先立たれ寂しく逝去した。弘中は京都在住時は、新島先生への敬愛心を失うことなく、先生の月命日には欠かさずお墓参りをした。
5,新島襄の真の弟子
弘中の教育者としての信念は、「教育は王道なり」という言葉によくあらわれている。それはいかなる時にも権力や自己の安楽のために左右されることなく、つねに学識を磨き、それを教育に反映すること、そして生徒を尊重し、その人間的成長を図ることであった。これこそ新島先生の教えであった。弘中は、熊谷中学でも同志社中学でもそれに徹している。弘中又一は、新島先生の真の弟子であったといえよう。
(参考文献:宮崎利秀『実録熊谷の「坊ちゃん」』1981、松原伸夫『坊ちゃん先生 弘中又一』1996)